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満潮(みちしお / みちしほ)〔#達昭和10年9月p.21『達第百十六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十年九月二十八日 海軍大臣 大角岑生|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 満潮(ミチシホ)|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 荒潮(アラシホ)』〕は、大日本帝国海軍の駆逐艦〔#日本軍艦集2600年版p.39『一等驅逐艦 満潮(みちしほ) 基準排水量1,500噸、長さ108.55米、幅10.15米、平均吃水2.75米、速力34節、備砲12.7糎砲6門、魚雷發射管8門、起工昭和10年11月5日、進水昭和12年3月15日、竣工昭和12年10月31日、建造所藤永田造船所-荒潮と同型。この級は、あらゆる點において、我國最精鋭驅逐艦としての貫録を備へてゐる。』〕。一等駆逐艦朝潮型(満潮型)の3番艦である〔#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『驅逐艦|一等|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』〕。1944年(昭和19年)10月下旬のレイテ沖海戦に、『西村艦隊』に所属して参加、米艦隊の砲雷撃を受けて沈没した。艦名は海上自衛隊の潜水艦「みちしお(初代)」と「みちしお(2代)」に継承された。 == 艦歴 == === 太平洋戦争まで === 1935年(昭和10年)9月28日、日本海軍は藤永田造船所で建造の駆逐艦を満潮、神戸川崎造船所で建造の駆逐艦を荒潮と命名した〔。満潮は藤永田造船所において同年11月5日に起工された〔#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20『満潮|(艦性能略)|藤永田造船所|10-11-5|12-3-15|12-10-31|(艦兵装略)』〕。 1937年(昭和12年)3月15日に進水〔〔『○進水 驅逐艦満潮昨十五日株式會社藤永田造船所ニ於テ進水セリ』〕。のちに僚艦となる白露型駆逐艦涼風より4日遅い進水だった〔『○進水 驅逐艦涼風本月十一日浦賀船渠株式會社ニ於テ進水セリ』〕。 7月6日、海軍は吹雪型駆逐艦暁艦長佐藤康夫中佐を満潮艤装員長に任命した(後任の暁艦長篠田勝清中佐は、レイテ沖海戦時の戦艦山城艦長)〔昭和12年7月7日付 官報第3152号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959635 p.8〕。 7月13日、藤永田造船所に満潮艤装員事務所を設置〔『○艤装員事務所設置 驅逐艦満潮艤装員事務所ヲ株式會社藤永田造船所構内ニ設置シ本月十三日ヨリ事務ヲ開始セリ』〕。 同年10月31日に竣工した〔。佐藤満潮艤装員長も制式に満潮初代艦長となる。舞鶴工廠で建造された朝潮型2番艦大潮とは進水は満潮の方が早く、竣工は同日であった〔#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20『大潮|(艦性能略)|舞鶴工廠|11-8-5|12-4-19|12-10-31|(艦兵装略)』〕。また重巡熊野も竣工し、熊野初代艦長は西村祥治大佐(レイテ沖海戦時、西村艦隊司令官)だった〔。 10月31日、2隻(大潮、満潮)の竣工と共に日本海軍は第25駆逐隊を編制した(駆逐隊司令井原美岐雄大佐)。井原は朝潮型3隻(朝潮、大潮、満潮)の中から司令駆逐艦を大潮に指定した〔『○司令驅逐艦指定 第二十五驅逐隊司令ハ本月一日司令驅逐艦ヲ大潮ニ指定セリ』-『○郵便物發送先 第二十五驅逐隊(大潮、満潮、朝潮)宛 自今 佐世保』〕。 1937年11月から12月にかけて中支方面で活動。 12月1日、佐藤(満潮艦長)は馬公防備隊副長へ転任、後任の満潮艦長は有田貢中佐(有田は11月15日まで熱海型砲艦2番艦二見艦長)〔。 その帰投後、佐世保海軍工廠で蒸気タービン機関の改造工事を実施した(臨機調事件)。 1938年(昭和13年)1月上旬、朝潮型4番艦荒潮(前年12月20日竣工)〔#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20『荒潮|(艦性能略)|神戸川崎造船所|10-10-1|12-5-26|12-12-20|(艦兵装略)』〕が第25駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(朝潮、大潮、満潮、荒潮)を揃える。 3月20日、有田(満潮艦長)が病死し〔『海秘人第一三八號 昭和十三年三月二十二日 海軍大臣 米内光政 内閣総理大臣侯爵近衛文麿殿|故海軍大佐有田貢多年軍職ニ在リテ克ク其ノ任務ヲ盡シ功績顕著ノ者ニ候處不幸病ニ罹リ三月二十日死去候ニ付テハ特ニ位一級被追陞度別紙上奏書進達ス』〕、姉妹艦大潮艦長勝見基少佐が満潮駆逐艦長を兼務することになった。 8月2日附で勝見少佐は白露型駆逐艦1番艦白露駆逐艦長へ転任。朝潮型4番艦荒潮艦長吉田義行中佐は荒潮駆逐艦長と満潮駆逐艦長の兼務を命じられ、また朝潮型1番艦朝潮艦長脇田喜一郎少佐が大潮の艦長を兼務することになった〔。 1939年(昭和14年)7月24日、吉田(荒潮艦長、満潮艦長)は兼務を解かれ、鈴木正明少佐(旅順防備隊分隊長)が満潮駆逐艦長となる。 8月16日、吉田(荒潮艦長)は水上機母艦能登呂副長へ転任される。鈴木(満潮艦長)は駆逐艦2隻(満潮、荒潮)艦長の兼務を命じられた〔。 9月25日、吉田正義少佐が荒潮艦長に任命され、鈴木少佐は兼務を解かれて満潮艦長に専念する。 10月15日、鈴木(満潮艦長)は佐世保海兵団教官を命じられ、初春型駆逐艦3番艦若葉艦長大島一太郎少佐が満潮駆逐艦長に任命される。 11月、横須賀鎮守府へ転籍し、第25駆逐隊は第8駆逐隊と改名〔『官房第五五八七號 本月十一月一日驅逐隊編制中改正竝ニ海軍定員令中改正施行ノ際現ニ左記上欄ノ隊ノ職員タル者ハ別ニ辭令ヲ用ヒズシテ各下欄ノ相當職員ニ補セラレタル義ト心得ベシ 昭和十四年十一月一日 海軍大臣』-『(従前ノ隊名)第八驅逐隊|(新隊名)第二十驅逐隊』-『第二十五驅逐隊|第八驅逐隊』-『呉防備隊|佐伯防備隊』〕。それまでの第8駆逐隊は第20駆逐隊(朝霧、夕霧、天霧、狭霧《11月15日編入》)となった〔。 11月15日附で伊集院松治大佐が第8駆逐隊司令に任命される。同時に第二艦隊第二水雷戦隊に編入され、以後中国方面で活動した。 1940年(昭和15年)1月15日、大島(満潮艦長)は海軍水雷学校教官へ転任、睦月型2番艦如月艦長等を歴任した小倉正身少佐が満潮駆逐艦長となった〔。 10月15日、伊集院(第8駆逐隊司令)は川内型軽巡洋艦3番艦那珂艦長へ転任、後任の8駆司令は森下信衛大佐(レイテ沖海戦時、戦艦大和艦長)となった。 太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)9月1日、森下(第8駆逐隊司令)は軽巡大井の艦長を命じられ、第21駆逐隊司令阿部俊雄大佐が後任の第8駆逐隊司令に任命された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「満潮 (駆逐艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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